責任という言葉の重さ


 先日、教え子が〇〇銀行に就職が決まったお祝いにと、彦島のカフェにランチに出かけてきました☺️
 娘サツキと同級生の、まだ若い女の子がシェフです。料理はどれもとっても美味しく、ボリュームもあり、お店もおしゃれで清潔感のある本当にステキな、かわいいカフェです。まさこは、これからも大事にしたいと心から思っている店ですが・・・

 下関市長のFacebookに、新型コロナウィルス感染者家族は彦島、向井小学校区在住と書かれ、地域がかなり限定的に表現されました。
 このFacebookで、きっとまた一波乱あります。その中で、彦島で必死で頑張る店が苦しい立場に追いやられるのではないかと不安になります。
 市長は、そのFacebookの投稿の中で
 「私達行政は責任をもって、速やかに濃厚接触者や感染経路などを調べて、施設消毒や対象者の状況調査など、二次三次の感染拡大を全力で止める為に努力を致します。そしてその情報を的確に皆さんにお出しします。

 そしてその対応と責任は全て私にあると、私も覚悟しています。」

 と述べていました。


 「責任」


 その中身が分かりません。どういう意味で使われているのでしょうか。

 もうこの間、悲しくなるぐらい、国会でその言葉を発する人物を見てきたからでしょうか。その「責任」を乱発する人が、ただの一度も責任を取ったことがないという事実。そして、市長は悲しいことに、その人物の秘書だった人なのです。

 ああ、おんなじだ😰


 もう一つおんなじなのは、

 「ですから、皆さん、どうか冷静に。そして常に自分の身に置き換えて御判断頂き。日本という国はもとより、下関市は優しさと配慮に溢れた素晴らしいまちだ、人びとだと言われるように。

 いや、言われなくても、そうであったよと、子供達に胸を張って伝える事のできる私達でありたいと、そう思っています。」の部分です。

 まさこは、こう呼びかける人を信じません。全てを一括りでまとめる考え方だからです。

 この呼びかけが、差別や偏見を生み出すもとだと、歴史が教えてきたからです。そして、この考え方が、国会で「責任をとる!!」と声高に叫ぶ、あの人と同じ考え方だからです。


 ちょっと優しさに欠け、配慮を忘れたら、つまり、忖度出来なかったら、間違ってる!と指差して排除されるのでしょうか。

 そもそも「優しさ」って何?「配慮」って何?

 人はそれぞれ違う。違って当たり前。なのに、違った行動や、はみ出した行動を取った人は「胸を張って」生きていけなくなる。

 多分、自分の言葉に酔っているんだなぁと思います。

 まさこは、あいまいな「優しさ」や「配慮」といったもので一括りになんかされず、情報をたくさん得る努力をして、自分の考えで、判断で、自分らしく、生きていこうと思います。


 今、下関では、まさこがたまに行ってたお肉のお店も来客が半減して大変なことになっているそうです。下関がそうなのですから、全国で、さまざまな店や小さな企業は、営業が成り立たなくなっていることでしょう。想像できます。


 ちっぽけで、自分勝手なまさこだから、なにより、大好きなあの店も、この店も、その店も守ってほしいのです。

 たとえば、遠くの角島ではありますが、たまやだって、ず〜っと守ってほしいと心から思うのです。

 まさこのために。